【55想】 精神としての身体 / 市川浩

精神としての身体 (講談社学術文庫)
第二章ぐらいまでは読めたが
それ以降は難しくて斜め読みした。


もう1冊「身の構造」を読んでからまた読むことにした。


それでも十分まえがきから考えさせられた。

このように自己意識が深化することによって、内面の自己と外面の自己というものが分裂してくる。ほんとうの自分は内に隠されていて誰にも理解されないんだ、と。それに対して、外面的な自己、つまり身体を通して他人にあらわれる自己は、見せかけであり、仮面である、と。そこで傷つきやすい真の自己を隠すという防衛反応の一種として、対人恐怖もでてくるし、仮面をかぶるという態度も生まれる。その一方では無媒介に他人(ひと)とつながり、無媒介に真の自分を外にあらわしたいという引き裂かれた欲求ある。ところが自己を他人(ひと)にあらわすのも、他人から隠す仮面になるのも身体ですから、そういう面でも身体に対する態度は両極端になるわけです。

そしてそれが行きすぎると分裂してしまう現象が起こるという。

自己というものは決して自分だけで自分をとらえているわけではなく、やはり世界を媒介として、いわば世界の反照として自己をとらえるという、媒介された自己確認の面があるんですね。そこで世界の存在が希薄化すると、それが照り返して、自己自身もだんだん希薄化してしまう。そういう袋小路のなかに落ち込んでいったわけです。
さらにいえば、世界の存在が疎隔していくということは、その中にある他者が疎隔するということでもある。他者も、具体的な意味を失ったもののような存在、一種のあやつり人形的な存在に見えてきてしまう。他者が具体的な充実した存在感をもたなくなり、他者との共感とか同調というもの失われていく。他者と身体的な志向において一致するというような、原初的な他者理解のレヴェルがなければ、われわれは他者を血肉をそなえた主体として感ずることができない。それは逆にいえば、他者を介する自己確認が失われるということでもあるわけです。われわれは、世界を媒介にすると同時に、他者を媒介にして自分というものを確認している。

他者の存在によって自己を確認する。

生きている具体的な身体を、もう一度回復せざるを得ないというぎりぎりの状態に追い込まれていった。回復の最初のきっかけになったのは、感覚の直接性の片鱗をたよりに感覚を回復するということですね。やはり混乱の時代に生きたスタンダールが、若いころの日記や妹にあてた手紙の中で、くりかえし「自分の感ずることに忠実であること」といっています。
(中略)
自分が無意識のうちに抑圧している自分、書かないようにしている自分があるのではないか。こうなると日記は書けません。その代わりに詩や小説、つまりフィクションを書くようになる。フィクションという形をとることによって、頭の後ろにある自分、意識されない自分が、自己検疫をくぐりぬけて表現されるわけですね。三島由紀夫の『仮面の告白』は、これはほんとうの 告白ではない、虚構の告白だ、ということですが、実は真の告白は仮面の告白としてしかありえないのではないか、という問題を鋭く提出しています。ゲーテの『詩と真実』にしてもそうでしょう。真の自己が内面的自己だというのも意識主義の思い上がりかもしれない。実際、人に指摘された外面的自己に、自分の気付かなかった自己の真実を感じて「はっとする」という経験は、誰しも持っているはずです。その点でもスタンダールは、自己を感じ直し、袋小路から脱出するきっかけになったような気がします。

自分の中の感覚を大切にする、ということ。
そして他人によって自分の一面に気付かされたというのは
自分も妻や他人と接することで感じたことがあるのでよくわかる。