思いは招く

久々の投稿


一時期話題になった「思いは招く」という植松努さんのTedでのプレゼン


感動しました。


最近思考が現実化する系の本を読んでいてまさにそれ。そしてたまたま本屋でこの本と出会いました。


好奇心を“天職


内容を立ち読みしてみると、Tedの中身+αぐらいだったのでどうしようか迷ったのですが、たまたま店舗で流れていた音楽が「夢を〜」みたいな内容で、ふっと思わずそのシンクロニシティに笑ってしまい、購入することにしました。


嫁の実家から帰る電車で読んでいたのですが何度も泣きそうになって読了。
素晴らしい本です。


自分は今年に入ってから転職、そして妻とぶつかったことによって、いろいろ考える機会がありました。
そしてあることに気づいたんです。
それが


人生を諦めている


ということでした。驚きました。そして「思いは招く」系の本を読んで、


いまの現実は、まさに自分が望んでいた


という事に気づいたのです。


そして何か忘れかけていた大切な何かに最近気づき始めてきたのです。


それが「夢」です。


自分は小さい頃からゲームが大好きでした。
将来の夢はゲームクリエイターになることでした。


でもそんな夢を両親はまったく相手にしてくれることはありませんでした。


あともうひとつ思い出したことがあります。
高校の時に「ポケコン」に出会ったのです。


衝撃でした。


プログラミングの面白さを教えてくれました。
なので自分はプログラムを学びたいと思っていました。


そして大学の学部を選ぶときにプログラムを学べる系の学部を希望して当時の高校の担当の先生との面談でのことです。


いまでもその瞬間ははっきりと覚えています。


「将来的なことや就職のことを考えるとこれを学んだほうがいいのでこの学部にしなさい」


正直良くわからなかった自分は何も言えませんでした。
そしてよくわからないままその学部へと進みました。


そのようなことをいろいろ経験してきたせいか『自分が本当になにやりたいのかとかよくわからなくなってしまった』ように思います。


いまでもその病にかかっているように思います。


世間や親や先生などの影響で何が本当にやりたいかわからなくなってしまっているのです。


しかし・・・


最近なんとなく気づき始めてきたのです。


そして冒頭の植松努さんとの出会い。


少しづつ忘れかけていた大切なものをこれから思い出して行きたいなと思いました。


「僕の子ども時代からはずいぶんたくさんのものが奪いとられてきました。たくさんの大事なものです。僕は今のうちにいくらかでもそれを取りかえさなくてはならない」
「生きつづけるために」
海辺のカフカ

自分の考えがない

読書は結構好きで頻繁に読んでいるのですが、ただ読んで終わっているだけなので、まったく自分の考えなどになっていないことに今更ながら気付いております。


最近ビジネスとは経営とはという大きな質問に対して疑問を感じたので、いろいろ読書していたのですが、いまじゃあなに?と聞かれるとまったくもって何の自分の考えもないのです。


よってしばらくは最近読んだ本に対してのレビューをここに書き記そうかと思った次第であります。

結婚とは

今回の正月は休みが長かったからか、嫁と息子一緒にいる時間も長くて結構辛かった・・・

やっぱり適度に仕事したりして離れる時間がないと、自分の場合は夫婦生活が逆にきついということを改めて知りましたね。

そんな時に、嫁が買っていた細木数子の本にいいことが書いてあったのでメモることにします。

 「結婚」は、あらゆる文化の始まりであり頂点です。どんな優秀才美な人間も、どんな荒々しい人間も、自分自身の優しさを表現できる、またとない機会です。 これは、西洋の文豪ゲーテの言葉ですが、「結婚」は、固く結ばれた紐のようでなければいけません。

 結婚生活をお茶にたとえていいますと、結婚したての時期は、ほろりと甘い一番茶です。しばらくすると、二番茶といって、少し苦みがでてきます。夫婦も、甘い甘い新生活から、苦しみを学ぶ生活に入ります。

 それを過ぎると、三番茶です。三番茶は、苦しみを通り過ぎて渋みに入ります。おとなの味とでもいいましょうか。

 そして、最後が四番茶です。この域になると、無念無想となります。お互いあまり干渉せず、相手のことを熟知した、熟れた夫婦になるのです。夫婦は最後に、そうした世界に入るものです。

 「君子の交わりは、淡として水の流れの如し」。お互いに詮索せず、清らかな水が淡々と流れるように天命をまっとうする、超越した世界に入ります。

是非とも無念無想の域に達したいものですね。。


30年後ぐらいかなぁ

【1想】 アルケミスト―夢を旅した少年 / パウロ・コエーリョ

アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫)
今年はじめての読書はこの本。


何をきっかけでこの本を知ったのか忘れてしまったのですが、Amazonほしい物リストにあったので購入しました。


買うまで気づかなかったのですが、翻訳をしているのがスピリチュアル系で有名な山川夫妻。スピリチュアル系は大好きな方なのですが、最近なんとなく距離を置いているため、ちょっと抵抗感を感じましたが、これも何かの縁かと思い、読み始めました。

「世界最大のうそって何ですか?」と、すっかり驚いて、少年は聞いた。
「それはこうじゃ、人は人生のある時点で、自分に起こってくることをコントロールできなくなり、宿命によって人生を支配されてしまうということだ。それが世界最大のうそじゃよ」

「まだ若い頃は、すべてがはっきりしていて、すべてが可能だ。夢を見ることも、自分の人生に起こってほしいすべてのことにあこがれることも、恐れない。ところが、時がたつうちに、不思議な力が、自分の運命を実現することは不可能だと、彼らに思い込ませ始めるのだ」
(中略)
「その力は否定的なもののように見えるが、実際は、運命をどのように実現すべきかおまえに示してくれる。そしておまえの魂と意思を準備させる。この地上には一つの偉大な真実があるからだ。つまり、おまえが誰であろうと、何をしていようと、おまえが何かを本当にやりたいと思う時は、その望みは宇宙の魂から生まれたからなので、それが地球におけるおまえの使命なのだよ」

「結局、人は自分の運命より、他人が羊飼いやパン屋をどう思うかという方が、もっと大切になってしまうのだ」


これを読んだ時にふと昔もらった年賀状を思い出しました。義理の叔父からいただいた年賀状なのですが、そこにこう書いてありました

夢と高い目標を掲げましょう。

この“夢”という言葉を見て、ドキッとしたのです。


大学を卒業してから社会に出て働き始めて、最初はなんとなくですが、“夢”というものがありました。しかし社会に出ていろいろ経験していくうちに、そこに“現実”というものが立ちはだかっていることを知り、そしてその“夢”が現実的に難しいということを知り始め、そして結果的にその“夢”というものを徐々に忘れてしまってきたように思います。


そんな時に、年賀状にその“夢”という言葉を見て「ハッ」としたのだと思います。「そういえば昔は“夢”というものがあったなぁ」と。


そしてこのアルケミストを読んで、またいろいろ考えさせられました。


“夢”


2013年のはじめにこの本を手にとったことに意味があるとすれば、今年はその忘れてしまっている“夢”を改めて考える年なのかもしれないのかな、と思いました。

2013年


あけました。
今年も嫁の実家で過ごさせてもらい、初日の出を拝んできました。


思えば2012年は、息子を授かって激動の年だったように思います。私生活が一変しました。
まさか息子と一緒に初日の出を見るとは・・・嬉しい限りです。


さて、2013年はどういう年になるのか。

 
個人的にはいろいろな課題があります。

 
・お金のこと
・家族のこと
・家のこと
・宗教のこと
・お酒のこと
・体のこと
・仕事のこと


うーん、わかっちゃいるんだけど・・・いつも酒に逃避する日々・・・


なんでしょう。最近、こう体の奥からの、魂からの情動を、声を、聴くことがなくなってきたように思います。何をやってもイマイチ満たされない感じ。まぁそれは今に始まったことではなくて昔からなのですが、そのあたりが一番大きな課題でしょうか。


ロックするかな。


では今年も何卒よろしくお願いいたします。

日記をつけるということ

ブログを移行しました。


いろいろ訳があって移行したのですが・・・
移行した理由はさておいて、移行の際に過去の自分のポストを見ていた際に、「あぁ、そういえばこんな時もあったなぁ」と忘れていた感情を何度か思い出すポストに出会いました。


もうすでに忘れられている感情ですが、その時の自分にとっていろいろ悩んでいることとか、考えていることとかが客観的に見られてすごい面白いなと改めて感じました。


なんか不思議ですよねぇ。


それでふと思い出したことが2つ。


まず1つ目がTEDxTokyoでの河瀬直美さんのプレゼンです。


彼女は映画監督なのですが、映画監督になるきっかけになった話をその中でされていてとても印象に残っています。

映画は奇跡なんじゃないか。だって、もう二度とないと思っていた時間が、こうして蘇ってくれる。すごいなあ。タイムマシンかなこれは、と思いました。


これを見たときに「そう! その通りだ!」と思いました。
というのも自分は写真を撮ることがとても大好きで、よく写真を撮りまくっているのですが、それは決して芸術的にいい写真と撮りたいということではなくて、過去の写真を見たときに、まさに河瀬さんの言うように「その時の時間が蘇る」というのが好きだから写真が好きなんだ、ということに気付きました。


写真とか動画ってその瞬間・時間を何度も振り返ること出来る、それってまさに河瀬さんの表現されるタイムマシンですよね。それをタイムマシンと表現するのがさすがだなと思います。


で、
もうひとつ思い出したのが、最近読んだ川又三智彦さんの著書です。川又三智彦って誰?と思うと思いますが、あのCMが印象的なツカサのウィークリーマンションの経営者、と言えば誰でもわかるのではないでしょうか。


最近「量子論」というのにふとしたきっかけではまって(そのあたりはまた別にブログにあげようかと。。)、いろいろ量子論関連の本を探している時にこの川又さんが「人生の意味と量子論」と「死の意味と量子論」という本に出会いました。


両方とも読ませていただいたのですが、その中で印象に残っている部分で以下の様な文章を見かけました。

自分の行動でも、世間の動きでも、丹念に記録して振り返ることで、普通では得られない発見や発想が得られます。遠回りに思えるかもしれませんが、ほかにはない成果を誰よりも早くあげたいのであれば、記録を取ることから始めるべきでしょう。


この“記録して振り返る”というのは先にあげた動画や写真、そしてこのような日記(ブログ)に当てはまるものだと思います。そしてそれは過去を振り返る、というのは過去にタイムスリップするということなんじゃないかなと思いました。


「過去にタイムスリップする」


それだけを聞くと、なにSFチック的な話なんだろうと思うかもしれませんが、いや、誰もが過去の写真や動画、または日記(ブログ)を見たときに「過去にタイムスリップ」しているのかもしれません。


面白いですね。そういう視点から見ると、川又さんは「何度も過去にタイムスリップすることで、普段では得られない発見や発想が得られる」というようにも言い換えられるかもしれません。


で、
いろいろ回りくどく書いてきましたが、結局自分が言いたいのは「日記」ってのは結構大事なんじゃないかなぁと思いました。過去にタイムスリップするための、そしそれは何が大切なものを思い出す、また何が自分にとって大切なのかを知り得るためには、その作業が必要なのかもしれませんね。


ブログの移行作業に伴って・・・


なんとなくそんなことを思いました。

責任

ひさびさにものすごいショックを受けました。


発収束作業の現場から ある運動家の報告
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-54.html


ずっと「後で読む」に入れておいて読まなかったのですが、
ひさびさにまとまった時間が取れたので読んでみたのですが・・・すごい。


現在あの福島の原発にて働く人の「生」の声です。

そこで問題なのが、圧倒的多数者の東京・首都圏の人たちが、少数の福島・新潟などの原発立地周辺の人びとにたいして、ある種の帝国主義による植民地支配のような眼差しをもっていることです。それは、権力を持っている者、為政者と全く変わらない眼差し・同じような意識です。
それは、運動の側でもそういう眼差し・意識に立っています。それがものすごくこわい。このことに思いが至らなかったら、たぶん反原発運動はおしまいじゃないか。

(中略)

―― 「基地を東京へ持って帰れ」と、沖縄の人たちが言います。それにたいして、本土の運動の側が、激甚に反発します。

(中略)

―― そういうことが、無自覚に進められる意識構造が、近代日本の基本構造なのでは?
大西: そうですね。沖縄と東北地方に矛盾を押し付けることで、帝国日本が成り立ってきたわけです。その問題が、こんな形でだけども、ようやく見え始めてきました。
 この切り口をどうやって、これまでの運動の本当に反省と転換ということに持っていけるだろうか。それができなかったら、本当にもう大変なことになるなという気持ちです。

これにはがつーんとやられました。
まさに自分は今までそこに無自覚なまま、漠然と原発に対しては反対な態度でいました。

大西: そうです。
 福島の方に、クソをずーっと貯め続けていて、そのクソが飛び散ってしまった。
 東京の人は、「クソが飛んできたじゃないか!」って文句を言っているけど。
 「それ、あんたが流したクソでしょ」って。
 自分のクソの処理ぐらい自分でやんないと。せめて「いっしょに掃除しましょうよ」というふうになりたいんですけどね。反原発であろうと推進派であろうとね。
 ところが、反原発運動をやっている人は、自分たちは被害者で、まったく罪はないという風に思っていますね。

(中略)

大西: もしもですが、「これから第一原発がまき散らした放射能を、全部、東京湾に埋めるんで、東京の人は、気を付けてくださいね」ということをやったら、果たして受け入れるでしょうか、という話ですが、ありえないですよね。
でも、東京の人は、その逆のことを、いとも簡単にやっているのです。傲慢な力を行使していることにすら気づいていないのです。

もう言葉もありません。
結局自分は自分のことしか考えていないのではないじゃないか・・・とぶん殴られたような気持ちです。


・・・・


ちょっと自分の気持ちを整理しようと思います。