【93想】 ノルウェイの森 / 村上春樹

ノルウェイの森 上 (講談社文庫) ノルウェイの森 下 (講談社文庫)
今まで読んできた本(アフターダークカフカの海辺)
とはまた違ったテイストの本だった。


「100パーセントの恋愛小説」とあったが
正直バリバリの恋愛小説というようには感じなかった。


と思ったらwikiに以下の文章が。

赤と緑のカバーにつけられた金色の帯には「100パーセントの恋愛小説」と書かれていたが、この金色の帯は村上の意図したものではなく、発売後しばらく経ってから出版社の意向で変えられたものである。もともと初版の帯は上下巻ともそれぞれのカバーとまったく同じ色(赤と緑)であり、金色の帯に変わったとき村上は日本にはおらず、もし相談されていたら断っていただろうと書いている。「100パーセントの恋愛小説」とは、ほんとうは『羊』『世界の終わり』とはラインが違うという意味で「100%のリアリズム小説」と書きたかったが、無理なので洒落っ気で「恋愛小説」という実体のない死語を引っ張り出してきた[1]。 2003年に講談社から出版された『ノルウェイの森 村上春樹全作品1979〜1989 6』には『100パーセント・リアリズムへの挑戦「自作を語る」』という副書が添えられている。
ノルウェイの森 - Wikipedia

wikiだからどこまで信じていいかわからないが
リアリズムか・・・


読んでいて恋愛よりも「死」ということに
目を向けられたのは自分だけではないだろう。


唯一の理解者である友人の「死」
そしてその友人の恋人との恋愛
そしてその恋人の「死」


哀しい。
どうしようもない哀しみがこみ上げてくる。


その恋人の「死」から主人公はこう語る。

 キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけたように思った。それはこういうことだった。
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
 たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。


これがビートルズノルウェイの森

ベストしか持っていないから知らなかった。


以下印象に残った箇所。

だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。

何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なんでも正直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互いをいくらか傷つけることになったとしても、あるいはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることになったとしても長い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に直子を回復させたいと望んでいるなら、そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。それがここのやり方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべるようにしなくちゃいけないわけ、ここでは。だって外の世界ではみんなが何もかも正直にしゃべっているわけではないでしょ?

「いちばん大事なことはね、焦らないことよ」とレイコさんは僕に言った。「これがもうひとつの忠告ね。焦らないこと。物事が手に負えないくらい入りくんで絡みあっても絶望的な気持になったり、短気を起こして無理にひっぱたりしちゃ駄目なのよ。時間をかけてやるつもりで、ひとつひとつゆっくりとほぐしていかなきゃいけないのよ。できる?」