【11想】 私の身体は頭がいい / 内田樹

私の身体は頭がいい (文春文庫)

自由であるというのは、ひとことで言えば、人生のさまざまな分岐点において決断を下すとき、誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う、ということに尽くされる。
他人の言葉に右往左往する人間、他人に決断の基準を訊ねる人間、それは自由とは何かを知らない人間である。そのような人は、ついにおのれの宿命について知ることがないだろう。

日本にいるとき、
ニューヨークに来れば自由になれると思っていた。


自由であるということは
全責任を自分一人で負う。


当たり前のことのように聞こえるが
ここに来てそれを身にしみて感じている。

武道の修行者はあまり伝書の類を読まないほうがよい、と合気道の師である多田宏先生に注意されたことがある。初心者が伝書を読み耽って、満足に基本の技術も身につかないうちに悟り澄ましたようなことを揚言するのを、「極意にかぶれる」と言って武道家は嫌うのである。

これは読書が好きな自分には耳の痛い話だ。


そして実際に心理学系の本を読むことで
痛い目に何度もあった。


それはとても怖いことだ。
気をつけよう。

「人間は自分の望むものを他人に与えることによってしか手に入れることができない」
だから、楽になりたかったら、自分の荷物を放り出して、他人の荷物を担げばいいのである。

この「荷物をもつこと」の章の内容が
とても気になるのだがどうも腑に落ちない。


なのでレヴィ=ストロースについて少し調べてみると
面白いブログなどに出会う。

このような事実を、社会という「体系」が、人間という個体を生み出したと解釈することは出来ないだろうか。

数学屋のメガネ:レヴィ・ストロースのすごさ


これはちょっと衝撃を受けてしまったかもしれない。
コメント欄にある「体系の視点に立つと、個人の自由はフィクションに過ぎないと強く感じます。」がよく分かる。


そのほかにもメモリンク
2008-11-28 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
レヴィ=ストロースの感性



ちょっとここまで書いていろいろ考えてしまったが
何か少し、生き方について、どう生きるかについて
思考の転換をしなくてはいけないような気がしてきた。


現在の思考で生きていると、
生きるのが辛くなるような気がする。


「他人の荷物をもつこと」というのは
何か大きく引っかかるキーワードであるような
気もする。