自由という幻想

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
以前リリー・フランキーさんの東京タワーを読んだが
今日スタバで待ち合わせしたとき、妻が読んでいた。


暇だったのでぱらぱらっとめくってみると
自分が最近考えていた「自由」について
ずばっとくる文章と出会う。

 東京には、街を歩いていると何度も踏みつけてしまうくらいに、自由が落ちている。
 落ち葉のように、空き缶みたいに、どこにでも転がっている。
 故郷を煩わしく思い、親の監視の眼を逃れて、その自由という素晴らしいはずのものを求めてやってくるけど、あまりにも簡単に見つかる自由のひとつひとつに拍子抜けして、それを弄ぶようになる。
 自らを戒めることのできない者の持つ、程度の低い自由は、思考と感情を麻痺させて、その者を身体ごと道路脇のドブに導く。
 ぬるく濁って、ゆっくりと流され、少しずつ沈殿してゆきながら、確実に下水処理場へと近づいてゆく。
 かつて自分が何を目指していたのか、なにに涙していたのか。大切だったはずのそれぞれはその自由の中で、薄笑いと一緒に溶かされていった。ドブの中の自由には道徳も、法律も、もはや抑止する力はなく、むしろ、それを犯すことくらいしか、残された自由がない。
 漠然とした自由ほど不自由なものはない。それに気づいたのは、様々な自由に縛られて身動きがとれなくなった後だった。
 大空を飛びたいと願って、たとえそれが叶ったとしても、それは幸せなのか、楽しいことなのかはわからない。
 結局、鳥籠の中で、空を飛びたいと憧れ、今いる場所の自由を、限られた自由を最大限に生かしている時こそが、自由である一番の時間であり、意味である。
 就職、結婚、法律、道徳。面倒で煩わしい約束事。枠に区切られたルール。自由は、そのありきたりな場所で見つけて、初めてその価値がある。
 自由めかした場所には、本当は自由などない。自由らしき幻想があるだけだ。
 故郷から、かなた遠くにあるという自由を求めた。東京にある自由は、素晴らしいものだと考えて疑いがなかった。
 しかし、誰もが同じ道を辿って、同じ場所へ帰って行く。
 自由を求めて旅立って、不自由を発見して帰ってゆくのだ。
 五月にある人は言った。
 あなたの好きなことをしなさい。でも、これからが大変なのだと、言った。


最初これを読んだときは
この意味が分からなかったような気がする。


しかし、今は分かる。


ニューヨークに来れば、
自由になれると思っていた。


しかしそこには自由などないことを知った。


いや、確かに自由なのだが、
自由がいかに不自由か、ということを知った。

自由は、そのありきたりな場所で見つけて、初めてその価値がある。


まさにその通りだと思う。