【12想】 働きざかりの心理学 / 河合隼雄

働きざかりの心理学 (新潮文庫)

面白かった。


河合さんの事はよく知っていたが
なんだかんだで本を読むのは初めてだろうか。

われわれは部下をよく見、よく知ろうと努めねばならない。そのような努力こそが部下を育てるのではなかろうか。ただ、ほめるのがいいそうだ、ということで安易になるのではなく、ほめることを通じて、部下を知り、また自分という人間を部下に知らしめることになる。人間と人間の触れ合いに至る道を、ほめることのなかから見出してくることが大切である。

これは決して部下だけに当てはまることではないと思う。
上司はもちろん、同僚や友人、
また家族などにも当てはまることだと思う。

大人たちが日常生活の進歩と発展に、あまりにも心を奪われているために、子どもたちの心の内奥から根本的な問いが発せられ、否応なく禅的世界に連れこまれる。それは、血みどろの戦いの世界であり、Fさんが言ったように、その答えは他人に教えられるものではない。公案は自分で解くより仕方がないのである。禅のことを知らないのに勝手なことを言ってしまったが、私には、親に向かって叫ぶ子どもの姿が、時に禅の老師に見えてくるのである。

深いなぁ。
自分も妻と何度もケンカして向き合って
何度も別れてやると思って、
そしてやはりとても感謝している。


頑固で自分勝手な自分をいつも気づかせてくれ、
自分をとても成長させてくれている存在だ。

このような文明の発達によって、苦しいことや悲しいことを少なくすることができて来たため、人間は苦しみや悲しみをすべて避けるべきであるとか、避けることができるとか考えるような錯覚を起こし始めたのではないだろうか。

耳が痛い話だ。


確かに自分の奥底にそのような
錯覚があるのかもしれない。


そもそも自分の人生をコントロールすることなど
できないのかもしれない。


世の中には自己実現という言葉が出回っているが
そもそも根本的に何か間違っているような気がする。

日常茶飯事のなかに、いかに多くの「心理学」の課題がころがっているかに、読者は気づかれることであろう。(中略)少し視点を変えると、それはあんがいなおもしろさを蔵していることも見えてくるのである。

あとがきのこの文章がまさに河合さんの
言わんとしているようなことだと思う。


日常生活にある、目の前にある出来事
それにどんな意味があるのか


そんなことを考えさせられる。

癌の宣告を受け、手術不能と言われてから、医者の予期に反して長く生き続ける人があることは、最近知られるようになった。このような点を研究したあるアメリカの心理学者は、興味深い結果を見出した。つまり、癌の宣告を受けて、まったく気落ちした人は早死にする。それと同時に、何とかこれに負けずに頑張り抜こうと努力する人も早死にするうことがわかったのである。
それでは、長命する人はどんな人であろうか。このような人は、癌に勝とうともせず、負けることもなく、それはそれで受けいれて、ともかく残された人生を、あるがままに生きようとした人であった。これはもちろん、言うは易く、行うは難いことである。しかし、勝負を超えた生き方が存在し、そこに建設的な意味があることを見出したことは素晴らし事だ。
人間は必ず死ぬのであってみれば、人間はすべての進行の遅い癌になっているようなものである。若者の戦う姿勢を老いてそのまま持ち続けることも、弱気になってしまうのもよくない。しかし、そのいずれでもない「死の受けいれ」こそが、われわれの老年をより生き生きとしたものとするのではないだろうか。ここに老いの逆説が存在しているように思う。

「死」


それは今の自分にとってとても遠い存在。


しかしこれは「死」に対して
当てはまることだけではないような気もする。


目の前の出来事を「受けいれる」


これが人生を生き生きとしたものにする
とも言えるような気がする。


生きていると辛いこともたくさんあるが
それを淡々と受けいれる。


そういうことができるようになれればいいな、と
ふと思った。