【38想】 女は何を欲望するか? / 内田樹

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)
フェミニズムに関する自分の考えは
別に述べるとしてこの本、
とても面白かった。


前半は「フェミニズム言語論」とあるように
言語論言語論していてよく理解できない自分は
頭が痛かったが、このような視点での見方が
あるのだなぁと感動した。


あまりフェミニズムには関係ないのだが
その中で気になった箇所。

言語と主体についての問題系の輪郭が整ったのは、十九世紀の終わりから二十世紀のはじめにかけてのことである。マルクスニーチェフロイト、そしてソシュールが、私たちは――男性であれ女性であれ――誰ひとり、自分の操作する言語の「主人」ではなく、むしろ言語の方が私たちの「主人」なのだということを教えてくれた。これが現在、言語についてどんな考察を始めるときにも、最初に踏まえておかなければならない前提的了解である。
テクストを書く人間はあらかじめ自分の内部に自存する「書きたいこと」を文章にして伝達しているのではない。自分が「書いたこと」を読んで、自分が「何を書こうとしていたのか」を知るのである。「言いたいことは」は「言った」あとに遡及的にその起源に想定されるばかりであって、決してそのままのかたちで取り出すことができない。
この言語観はヘーゲルの自己意識論と同じ論理的母型から鋳造されている。ヘーゲルは人間はその「労働」を通じておのれの本質を顕在化してゆくのであり、労働に先だって人間の本質が自存するのではないと語った。この母系型知見は、それ以後ほとんどすべての社会理論の形成に関与している。
(中略)
表現に際しての「言い足りなさ」は構造的な必然であり、むしろ決して「言いたいこと」が言えないという乖離感こそが、私たちを言語へと向かわせる根本的な原動力であるという順逆の転倒を指摘したのがジャック・ラカンであること、これもすでに述べた。

これは以前別の文献かブログで見かけて
非常に興味を持った内容である。


が、いまいちよくわからない。
実際に関連本を読んでみたい。


で、後半は「フェミニズム映画論」なのだが
めちゃくちゃ面白かった。


映画にこんな見方があるのだなと改めて
感動したと同時にフェミニズムの流れも
よくわかったような気がする。


これもあまりフェミニズムには関係ないが
映画に関して気になったところをメモ

リドリー・スコットが伝承的な話型を意識的に採用したのか、それとも「恐ろしいエピソード」を求めているうちに、無意識的に古典的な恐怖譚に回帰してしまったのか私たちには判定できない。しかしすぐれたストーリー・テラーは自分の個人的な無意識を集合的無意識と通底させる才能に恵まれている。その時代の観客が見たがっているもの(しかし抑圧されているもの)を感知するために必要なのは、無意識的な共感能力である。スコットがここで映像的に同調しようと試み、そしてそれに成功したのは、1970年代末におけるアメリカ社会の性関係にかかわる集合的無意識である。

単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である(それは「プロパガンダ」にすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は「質の高い物語」である。
「質の高い物語」は私たちに「一般解」を与えてくれない。その代わりに「答えのない問題」の下に繰り返しアンダーラインを引く。私たちは「問題」をめぐる終わりのない対話、終わりのない思索へと誘われる。

答えのない問い・・・


だから映画とか文学は好きだ。