【48想】 教育と国家 / 高橋哲哉

教育と国家 (講談社現代新書)

少年犯罪と教育そして教育基本法との相関関係は単純に言えるようなものではない、ということです。

これは他の記事でも読んだ記憶がある。よく少年犯罪が増えてきたというニュースを見かけるが数字を見る限りまったくの嘘なのである。


法務省「犯罪白書」より


著者は戦後直後のある事件を例にとっていたが、検索して見ると簡単に見つかった。

昭和23年(1948).12.6〔中2女子(満13〜14歳)が厳しい母親に反発し一家皆殺し〕
福岡県大牟田市の自宅で、中学2年生の三女(15)が、夕食の大根雑炊に殺虫剤のアヒ酸を入れ、父母、祖母、姉、妹の家族7人皆殺しを謀る。たまたま食べなかった祖母以外の6人が苦しみ出して、五女(10)と六女(6)が死亡、ほかの4人は床に着いたが命に別状はない。三女も食べずに元気だったので疑われてすぐに自供した。
昭和23年(1948年)の少年犯罪

確かにこれが今の時期起こったらすごいマスコミは騒ぎそうである。

人を殺す子どもの割合は近年、明らかに減っているのです。少年の凶悪事件があると、今の時代が悪い、戦後民主主義が悪い、戦後教育が悪いと言われますが、具体的なデータを見れば、戦後教育の悪玉論に根拠がないことがはっきりします。

増えてきたと感じさせるその原因は
メディアの取り上げ方が原因という。
やっぱメディアだよな・・・

ラッセルの愛国心
「生まれ育った土地、なつかしい家族や近隣の人々への偽りのない愛情からほとばしる家庭愛(家族愛)、郷土愛の根は、地理風土や生物学的感情にある。この素朴な愛情自体は政治的なもの、経済的なものではない。自分の国をおもう感情であり、他国を排斥するものではない。非難される点は何もない。(しかしそれは)現代国家に見られる愛国心とは異なる。」
http://russell.cool.ne.jp/beginner/KYODO-AI.HTM

愛国心についてラッセルの論を取り上げる。

愛国心教育を法的に正当化し、それを国家的に公教育という装置を使って行うわけですから、人々の中におのずからうまれてくる愛国心ではなくて、国が上から人々に注入し強制する愛国心になってしまう。
(中略)
大切なのは、同時に、自分は愛国心をもちたくない、あるいはそういう教育を押しつけられたくない人の自由権も認めるべきだということです。

押しつけの愛国心。その通りだと思う。

忘れてはならないのは、国を愛することには本質的に排他性が伴うことです。
(中略)
要するに、どのような場合でも共同体というものは、とりわけ国家の場合には強力に「われわれ」と「他者」とを区別しますから、そこに暴力性がないとは言えないのです。この意味で、愛国心は必然的に他者の排除を伴うわけです。

これは深く良い問いをもらった。
共同体というものが存在するという時点で、他者との区別、排除を伴う、か。人は共同体なしには生きられないと思うのでやはりそこで大切になってくるのは他の共同体を排除するのではなく、その存在や主張を認めるということだろう。ローマがそうしたように。

伝統文化というものは絶えず批判され、破壊され、そして再構築され、その上で新しい「文化」がうまれてくるのです。
(中略)
伝統文化というのも、常に今、現在において新しくつくられつつあると考えることもできるので、過去に終わってしまった、博物館に入っているものを伝統文化と称して、それの後継者になれといわれても、子どもたちは困ってしまうのではないでしょうか。

よく新しい文化を批判する人、例えば、携帯が普及してその悪い面をやたらとりあげて批判する人などを見かけるが、そういう人にはとても違和感を持つ。おそらくいつの時代も、例えば車、電話、電気が発明されたとき時、絶対に同様の批判があったのではないかと思う。


他にも引用したい箇所あるが・・・
時間がないのでこの辺にしとこう。