パンパンパン!


と3回、花火のような音が聞こえた。


ここはチャイナタウンで、たまにチャイニーズが
花火などを平気で普通の道路であげているので、
またどうせ花火だろうと、まったく気にしていなかった。


まぁ花火じゃないとは言えども
若者が遊びでばくちでもしたのかなと思っていた。


しかしどうも今回は違うようだった。


結論から言うとそれは「銃声」だった。


気づいたのはルームメイトがたまたまベランダで
たばこを吸っていてその現場を目撃したからだ。


あっという間に警察が集まってきて、
いつもの交差点が慌ただしい空気に変わった。



銃声


アメリカは銃社会で有名だが、
州によっては規制されていて、
今住んでいるニューヨークは銃の所持は禁止されているそうだ。


なので、まったく気にしていなかったが、
さすがにここはニューヨーク


違う州で簡単に手に入る銃を
もちろん持っている人もたくさんいるはずだ。


それにしてもまさかこんなに近くで
発砲事件があるかとは思わなかった。


アパートから50メートルぐらいの交差点である。


妻が1時間ぐらい前に買い物から帰ってきて
その現場を通っているし、ルームメイトもちょうど
買い物に行こうと思っていたところらしい。


怖いなぁ・・・


最初はそう思ったが、それにしても実感がない。


確かにそこで発砲事件があったのに、
その実感が全く湧かないのだ。


「銃」というのがあまりにも自分の生活から
かけ離れたものだからだろうか。


そもそも「死」というものが自分の生活から
かけ離れているからなような気もする。


今回は特に死者は出なかったようだが、
治安が良い、安全な国日本では
なかなか親族の「死」以外の「死」に
遭遇することはない。


「死」が遠い。


そう言えば、内田氏の街場の現代思想を読んだときに
そんなことが書いてあったことを思いだした。

今の時代がしんどいのは、若い人たちに「未来がない」からである。もっとはっきり言えば、若い人たちが「死んだ後の自分」というものを自分自身の現在の意味を知るための想像上の観測点として思い描く習慣を失ってしまったからである。
今の若い人たちに欠けているのは「生きる意欲」ではなく、実は「死への覚悟」なのである。「生きることの意味」が身にしみないのは、「死ぬことの意味」について考える習慣を失ってしまったからである。


(中略)


私が若い方々に勧奨することは、とりあえず一つだけである。それは、自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことになるのか、それについて繰り返し想像することである。困難な想像ではあると思うけれど、君たちの今この場での人生を輝かすのは、尽きるところ、その想像力だけなのである。


これは田坂さんがよく言っていることと一緒だ。


「死」を想像する。


自分も何度か試みたが、それはとても難しいことである。


正直今死んでもなんかいいかなぁと思うことが多々ある。


辛いこととか多いから死にたいとかでなく、
なんというか・・・


なんとなく満たされていないのである。


なんだろうこの感じは。


なんか・・・この満たされていない感じ。


ん〜どうなるんだろ、俺の人生


追伸:
ちょうどほぼ日の連載がまさに「死」に対する対談
ほぼ日刊イトイ新聞 - 死を想う