【137想】 日本を滅ぼす教育論議 / 岡本薫

日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

「親がつくった家庭のルールを子どもに押しつけようとしたら、子どもの個性の芽を摘み、親の型にはめることになってしまうのではないか。それでよいのか?」ということを心配する親もいるようだが、そのような心配をする必要がないことは、自分自身が素直に「親の型」にはまったかどうかを考えてみれば、明白だろう。

思わず笑った。


一番気になったのは、
『同質性の信仰を脱しているか?』の章だ。


これは自分が妻や友人などの
価値観が異なる人たちとのふれあいの中で
いつも悩んでいることである。

そうした「複数の人々」は、自由な社会ではそれぞれが「思想・信条・良心の自由」や「幸福追求権」を与えられているため、当然に異なる価値観、考え方、倫理観、道徳観、モラルなどを持っている。したがって、常に「対立の存在」を前提とすることが必要になるのだ。


(中略)


その背景にあるのは、すでに述べた「同質性の信仰」だろう。同質性が高く、「以心伝心」とか「言わなくても分かる(はずだ)」という文化が育まれてきた日本では、無意識のうちに「みんなが同じ『心』を共有できるはずだ」という安易な考え方がもたれがちだ。ここで言う「同じ心」とは、実は「自分と同じ心」という意味であり、こうした発送は「他人も自分と同じ心を持てるはずだ(持てないとしたら相手が悪い)」という、集団意思形成・当事者間合意形成を阻害する危険な考え方に結びつきやすい。


(中略)


人々の間に多様性や対立があることを前提とし、「社会全体のルールづくり」についても「自由の中での約束・契約」についても、異質な人々が冷静・建設的に議論を行い、集団意思形成や当事者間合意形成を実現していくために必要な態度を、フランス語では「フラテルニテ」という。 (中略) 要するに「博愛」=「仲良くすること」ではなく、「異質な他社を尊重すること」というのが本来の意味である。 (中略) したがって、「仲良くする」とか「同じ心を持つ」などという必要はなく、極端に言えば「憎しみ合ったまま」でもかまわないのだ。


これはローマ人の考えである「寛容」に似ている。
ローマ人への20の質問


そして内田樹氏の街場の現代思想
他者との共存(結婚)について、こう書いてあったのを思い出す。

結婚は快楽を保証しない。むしろ、結婚が約束するのはエンドレスの「不快」である。だが、それをクリアーした人間に「快楽」をではなく、ある「達成」を約束している。それは再生産ではない。「不快な隣人」、すなわち「他者」と共存する能力である。おそらくはそれこそが根源的な意味において人間を人間たらしめている条件なのである。(中略)繰り返すが、人間を人間たらしめている決定的な資質とは「他者と共生する能力」である。


(中略)


結婚とは「この人が何を考えているのか、私には分からないし、この人も私が何を考えているのか、分かっていない。でも、私はこの人にことばを贈り、この人の言葉を聴き、この人の身体に触れ、この人に触れることができる」という逆説的事情を生き抜くことである。
自分を理解してくれる人間や共感できる人間と愉しく暮らすことを求めるなら、結婚をする必要はない。結婚はそのようなことのための制度ではない。そうではなくて、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度なのである。


最初読んだときはなんとも言えない
不快感に包まれたのを覚えている。


それは絶対に自分のことを理解してくれるはずだという
「同質性の信仰」を自分の中に持っていたからだろうか。


また改めて他者と生きることについて考えさせられた。