【18想】 蔓延する偽りの希望 / 村上龍

蔓延する偽りの希望 (幻冬舎文庫―すべての男は消耗品である。)

内戦は存在しないが、現在の日本でもコミュニケーションはあちこちで寸断されている。親の愛情は現実に裏切られ、誠心誠意頑張ってもどうにもならないことが数多くある。それが現実だから、多くの人々は幻想によって癒されている。メディアからは、親の愛情は何よりも強く愛情さえあればさまざまなトラブルも解決するというような嘘の情報が流れている。誠心誠意尽くせば、誰もが自分のことをわかってくれるというような嘘も機能している。
(中略)
誠心誠意頑張ればコミュニケーションが成立するという嘘は悪質だが、安易なので需要は多い。いまだに日本の常識として通用している。

自分もその幻想に浸っていたような気がする。
それを幻想だと気づかせてくれたのは妻だろう。


妻と結婚して一緒に暮らし始めたことで
その「他者」とどう生きるかということを
よく考えさせられた。


その中で先に村上氏が言うようなことに
何となく気づき始めたのだ。

わたしたちの社会では問題を個別に限定することがむずかしい。問題・トラブルはすべて「みんなの問題」でなくてはいけないのだ。わたしたちの社会は何よりも一体感の喪失を恐れている。率直な意見や指摘は、場合によっては一体感を失わせる。一体感を高めるものが善で、一体感を失わせる恐れのあるものはタブーになる。
(中略)
つまりわたしたちの社会では、率直な発言にはコストがかかりすぎて、利益が少ないのだ。事実というのはミもフタもないことが多い。ミもフタもない事実を明らかにすることをわたしたちの社会は嫌う傾向がある。

他にもいろいろな形で、
日本の社会のことを言っている。

つい最近まで日本社会の隅々にフラクタルに存在していた「世間」という共同体はほとんどの不安を解消するように機能していた。共同体の構成員は病気のときに看病してもらえたし、食料や金がないときには融通してもらえた。就職や結婚の世話もしてもらえたし、何より孤独にならずにすんだ。
(中略)
現在そいうった「世間」はどこを探しても存在しない。その成員になりさえすれば、不安が自然になくなるような共同体はどこにもない。しかしそれでも個人的な不安を抱えることはタブーのままだ。子どもが、不安なんだ、と言うと、親はそれだけで心配する。
個人が何らかの不安を抱えるのは当然というコンセンサスが定着しない限り、世間という幻想が機能し続ける。そして大勢の人が意味のないストレスを持ち続けることになる。

日本的な共同体が崩れ始めている。
それは自分もなんとなく気づいていることだ。


そして個人になる不安は当然なのだ
という意識を持つべき、ということか。

言いたいことがある人は、拡声器を使って駅前で怒鳴ればいいではないですか。ぼくは言いたいことがあるわけではなく、伝えたい情報があって、それは物語の形にしないと伝わりにくい情報なので、小説を書いたわけです。

「物語」でなければ伝わらないもの。