【22想】 若きサムライのために / 三島由紀夫

若きサムライのために (文春文庫)


三島由紀夫という人は
ただ自決した人という認識しかなかった。


しかし1,2年前ぐらいにNHKにて三島由紀夫
インタビューのようなものをやっていて、
何気なく見ていたのだが、
とても感銘を受けたのを覚えている。


それが以前もブログに載せたインタビューだ。
2009-02-09 - なんとなく考える


なぜかこの人にものすごい惹かれるものがあった。


そしてなんだかんだで
三島氏の本を読んだのは初めて。


といってもこれは小説でない。

人生というものは、死に身をすり寄せないと、そのほんとうの力も人間の生の粘り強さも、示すことができないという仕組みになっている。ちょうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、合成された固いルビーやサファイヤとすり合わさなければ、ダイヤモンドであることが証明されないように、生のかたさをためすには、死のかたさにぶつからなければ証明されないのかもしれない。

死が生を示すという逆説


面白かったのは「作法について」の章

人間の真心がそのまま相手に通じると思うことはまったくの間違いである。人の心はどんな親しい友人の仲でも、長年の付き合いの仲でも、お互いに解らない部分を残している。

村上龍さんが言っていたことと一緒だ。
この幻想に人々はとりつかれている。


続けてこう書いている。

そして、言葉はそれを繋ぐ橋であるが、その橋にはちゃんとした渡れるだけの設備があり、欄干(らんかん)がつき、擬宝珠(ぎぼし)がついていなければ橋とはいえない。
それがすなわち作法である。
(中略)
作法はこのように自分の身を守る鎧なのである。そしてそのルールを必要としない人たちは、作法を必要としないといっていいだろう。そして、その作法を必要としない人たちを動物と呼ぶか、或いは人間の自然の姿と呼ぶかは、その人々の考えによって違うであろう。
(中略)
私は作法というものが、どんなに若者を美しくするか、それに比べて、作法のない世界に住んでいる若者たちは、どんなに魅力がないか、という実例を見る気がした。

これは内田樹さんが礼儀作法、敬語について
同じ事を言っていた。

未来社会を信じる奴は、みんな一つの考えに陥る。未来のためなら現在の成熟は犠牲にしたっていい、いや、むしろそれが正義だ、という考えだ。高見順はそこで一生フラフラしちゃった。
未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしている奴が何人いるか。現在ただいましかないというのが「文化」の本当の形で、そこにしか「文化」の最終的な形はないと思う。
小説家にとっては今日書く一行が、テメエの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた「文化」が体を通してあらわれ、定着する。その一行に自分が「成就」する。それが「創造」というものの、本当の意味だよ。未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。
三島のいうことには未来のイメージがないなんていわれる。バカいえ、未来はオレに関係なくつくられてゆくさ、オレは未来のために生きてんじゃねェ、オレのために生き、オレの誇りのために生きてる。

今を生きろ、今を生ききれ。