【31想】 私の知的生産の技術 / 梅棹忠夫

私の知的生産の技術 (岩波新書)


肝心の「知的生産の技術」を読んだことがないが
ブックオフで見つけたので手にとって読んでみる。


本人が書いたわけでなく、
読者の「知的生産の技術」の投稿を

執筆の依頼がないのに、あらかじめ下書き程度のものを作成することがあってもよい。私はむしろこのことこそ、ある意味で生涯学習の神髄と確信している。
(中略)
それに関連した知見・記憶・経験の断片を、順序や軽重などを問題にせず、ワープロの中でつぎつぎ箇条書きする。
(中略)
それが一段落すれば、インプットした項目のいくつかを選び出し、それらを核にしてだんだん趣旨をふくまらせる。あらかたまとまったところで、さらに発送をまじえながら、そのふくらんだ思考内容に応じた文章を、あらためてインプットしていく。同じ言葉や表現が多かろうが、文が長すぎようが、この時点ではいっさい顧慮しない。ひたすら思いのままに、文字をつらねていくだけである。

インプットするばかりで
アウトプットする機会がない。


かろうじてこのブログぐらいだが、
それこそ神髄とは面白い。

「知的生産の技術」とはいえ、それは私にとって「整理学」とか「書斎術」とかいった、広義の情報処理をめぐるノウハウを指すものではない。むしろ、ひとつの「身体技法」として「体得」されるべきものなのである。
(中略)
「身体に問う」という方法を、ほかでもない、「思考」の出発点としたのは、確かニーチェであった。ところが、たいていのひとは、「知的生産」と聞けば、何か「精神による生産」(あるいは、もう少し「唯物論的」な考えた方を採るひとならば、「精神」の代わりに「脳」と言うかもしれない)でもあるかのように受け取ってしまうのではないだろうか。私はこのほとんど習慣的な前提にまといついている疑わしさを、「体験」に即しながら明らかにしていきたいと思った。「身体に問う」ことによって、関係の束の収束点としての身体を「知的生産」の出発点と見なした。したがて、知的生産の「技術」は、どうしてもまず「身体技法」という性格をまとうことになった。身体を「活用」して、さまざまな関係を「生態系」として構成してゆくこと、すなわち「知的活動」と「生活」とをひとつにより合わせてゆくこと、それが、「身体技法」のもっとも基本的な内容である。

ひとつの「身体技法」として「体得」されるべきもの


かっこいい


自分は休みの日は家にこもっていることが多いが、
こういうのを見ると、パソコンと一日中にらめっこしていたり
家で一日中本を読んでいることを、少し考えてしまう。


茶店に行くだけでもずいぶん気分が変わるしなぁ

「技術」の語源であるギリシア語の「テクネー」の意味を改めて思い起こしておきたい。古代のギリシア人にとって「テクネー」とは、まず何よりも「よく生きうるための術」のことであった。

よりよく生きるため、か。