【42想】 日本語が亡びるとき / 水村美苗

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

人はなんと色んなところで書いているのだろう……。
地球のありとあらゆるところで人が書いている。
地球のありとあらゆるところで、さまざまな作家が、さまざまな条件のもとで、それぞれの人生を生きながら、熱心に、小説や詩を書いている。もちろん、六十五億の人類の九割九分九厘は、そんな作家が存在したことも、そんな小説や詩が書かれたことも知らずに死んでいく。それでも作家たちは、地球のありとあらゆるところで、働いたり、子供を育てたり、親の面倒を見たりしながら、時間を見つけては背を丸めてコンピュータに向かい、何やら懸命に書いているのである。与えられた寿命をたぶん少しばかり縮めながら、何やら懸命に書いているのである。

なにか印象に残る言葉。
その世界中で書いているという事実にも驚くが
何かを書こうとする、表現しようとする人の姿に感銘を受ける。

当然のことながら、小説の場合も、もっとも多くの人に売れるもの、すなわち、もっとも<流通価値>をもつものが、もっとも<文学価値>をもつとは限らない。
それが芸術の崇高なところである。

これは音楽や映画、もちろん本からも学んだこと。


あと国語としての日本語が誕生した話にも感動した。


<普遍語><国語><現地語>が混乱したのでメモ

言語は大きく、「普遍語」「国語」「現地語」の三つに分類されると言う。
「普遍語」とは、国を超えて智を共有する為に用いられる言語のこと。かっては漢語であったり、ギリシャ語、ラテン語など、普通の人が理解できなくても学問をする人々の間で世界共通語として、叡智を共有して学問を展開することの出来る言語です。
「現地語」とはある地域の民族の中でだけ通用する言語。そして「国語」とは、「普遍語」と「現地語」の中間、その国の公用語として、普遍語に近い働きをする言語と言われています。

興味深いのは、国語としての日本語は、明治に入って欧米の文化を取り入れるために、外国語を翻訳する必要に迫られて、当時の日本の大学(主に東大だが)の教授たちがかなり苦労して作り出したと言うこと。
その教授たちが、鴎外であったり、漱石、内田百輭、坪内逍遥など同時に日本近代文学の巨人たちであったのは偶然ではない。
つまり、新しい国語の成立が、日本の近代文学の成立を可能ならしめているということです。
もちろん、そのような近代文学が成立する基盤としては、万葉集源氏物語などの伝統的な日本文学の存在が大きな位置を占めているわけですが。
日々雑感 日本語が亡びるとき


ここのまとめもわかりやすすぎる
「日本語が亡びるとき」から得られる議論のプラットフォーム · As a Futurist...


その他メモ:
『日本語が亡びるとき』 言葉の壁にぶつかった際のフレームワーク - ktdiskのブログ
外資系企業の「普遍語」、「国語」、「現地語」事情 - ktdiskのブログ
http://niyao.jugem.jp/?eid=305