【45想】 いまどきの「常識」 / 香山リカ

いまどきの「常識」 (岩波新書)
基本的にあんまり面白くなかったが
引っかかる箇所が何点か。

いずれにしても、いくら「ジェンダー重視教育」を主張する人たちが声をあげても、少子化社会で女性の労働力はますます重要なものとなり、女性の社会進出は今とは形を変えることはあってもストップすることはないだろう。そうなると、一方で「女は女らしく」と言いながら、他方で「女性もどんどん働いて」と勧める教育を施さなければならなくなる。それこそ、心理学の世界では「ダブル・バインド」と呼ばれるもっともストレス度が高い状態だと思うのだが、そのあたりは心理学者や動物行動学者たちはどう考えているのだろう。

妻と重なる。

おそらく「ゆとり教育」についてもこれと同じことが言えるはずである。子どもがおかしい。それはいったい何のせいだ。「社会のせい、おとなたちのせい」とは思いたくない。「教育のせい」「女性のせい」「テクノロジーのせい」と決めつけておけば、自分たちにお鉢が回ってくることはないだろう・・・。そういった責任回避のメカニズムが、ここにも隠れている。

世の中がこうなったのは自分たち大人たちに原因がある
と言っていたのを聞いたのは村上春樹しか知らない。
af_blog: 物語は世界共通言語---村上春樹インタビュー

社会福祉論の立岩真也氏は『AERA』のインタビューに答えてこう言っている。
「「自己責任」という言葉がとくに90年代以降、経済や政治の世界でむやみに使われ、攻撃的な気分にもっともらしさをかぶせる言葉として広がってしまった。自分の力で自らを救えないものは救われなくてもいいとなると、人のために何もせずにすんで得をする人がいる。だから自己責任がそういう人たちに支持されるのはわかる。だが、どうも得をしない大勢の人たちも、乗せられてしまっているふしがある」
(中略)
最近は、「得をしていない人たち」までが同じような立場にある人たちを「自己責任だ」と攻撃するようになった、と立岩氏は言うのである。
(中略)
自己責任論には、自分とほとんど変わらない立場の人の失敗や困惑を「それはあんたの自己責任だろう」と激しく責めて窮地に追い込むことで、「私はこうではない」ととりあえずは自分の身の安全を確保できるという“効果”がある。「私だって一歩間違えばああなっていたかもしれない」という想像の回路さえ遮断すれば「ほら見たことか!」と相手の非を激しく攻撃することで、自分は勝者の立場、正義の立場に回ることが可能になるのだ。
逆に考えれば、似たものどうしで互いの自己責任を追求しあって現実から目を背け、「私は社会の大勢側だ。だから大丈夫なのだ」と自分に言い聞かせなければならないほど、現実も自分の未来も不安や恐怖でいっぱい、ということか。

うーん、まさにこれだ。
これがネットで他人を批判する人の心理と思って
間違いないだろう。


他人を批判することで自分を正当化する。


そして何よりも
その根本にはやはり漠然とした不安や恐怖があるのだ。


それを見なくして、“批判”を批判するもの
馬の耳に念仏だろう。