【46想】 若者殺しの時代 / 堀井憲一郎

若者殺しの時代 (講談社現代新書)
予想外に面白かった。

1970年代は「若者」というカテゴリーがまだきちんと社会にみとめられていなかったんだということがわかる。
(中略)
おとなにとって、若い連中とは、社会で落ち着く前に少々あがいているだけの、若いおとなでしかなかったのだ。その後、「若いおとな」とはまったく別個の「若者」という新しいカテゴリーが発見され、「若者」という新しいカテゴリーが発見され、「若者」に向けての商品が売られ、「若者」は特権的なエリアであるかのように扱われる。若い、ということに意味を持たせてしまった。一種のペテンなのだけど、若さの価値が高いような情報を流してしまって、とにかくそこからいろんなものを収奪しようとした。そして収奪は成功する。
(中略)
自分たちでまだ稼いでいない連中に、次々とものを売りつけるシステムを作り上げ、すべての若い人をそのシステムに取り込み、おとなたちがその余剰で食べているという社会は、どう考えてもまともな社会ではないのだ。まともではない社会は、どこかにしわ寄せがくる。それが21世紀の日本と日本の若者だ。


そしてそれは1983年からはじまったと著者は言う。

クリスマスが恋人たちのものになったのは1983年からだ。
そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある。「若者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうするべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめる時期なのである。若い人たちにとって、大きな曲がり角が1983年なのだ。

昔は違ったのか・・

携帯電話の歴を簡単にまとめるとこうなる
「1989年に一部の人が使い始め、1995年にかなり出回り、1997年からみんな持つようになり、1998年以降、持っていないことは許されなくなった。」

なるほど。
自分がPHSを持ったのが1996年ぐらいだからほぼ当てはまる。

90年代に崩れていったのは「内と外」のバランスである。
(中略)
東京の突出は1980年代に始まり、1990年代に固まった。都市と田舎のバランスも崩れだした。
東京の突出はみんながアタマで生きだしたということでもある。東京は「日本中のイメージと欲望を実現する都市」になった。東京の過剰な拡大と、必要以上に生活が便利になり続けるのは、同じ流れである。どちらも名前をつけると「都市化」である。
僕たちは、便利さ時ごっくに陥っている。

内と外、アタマとカラダのバランスが崩れたというのは非常に興味深い。
これは養老さんも指摘しているところであり、
様々な人がいろいろな形で指摘している。

1995年を境に、僕たちの社会は動かなくなった。
それは80年代の気分を1995年に徹底的に潰されたことによる。
1月17日に阪神大震災、3月20日地下鉄サリン事件が起きた。
1995年ショックである。それによって、僕たちはいろんなことをあきらめた。二度と高度成長できないだろうと悟った。悟ったが口には出さなかった。高度成長はできないが、高度成長するシステムは残ったままである。そのシステムが僕たちを幸せにしてくれない。

そしてその結果、ノストラダムスの1999年の予言にて
世界が亡びることを人々は無意識的に期待していた、と著者はいう。
なるほど・・・

そもそも社会のシステムの1ターンの基本はおよそ60年である。それは一人の人間が使い物になる期間が、だいたい60年だからだ。
(中略)
日本が近代国家を始めたのが、1868年。そのシステムをやめたのが1945年。これは78年もった。大敗戦後のシステムは1945年に始めて、さてどこまで延命できるだろうか。早いと2015年。もって2030年だ。
明治維新で作り上げたシステムも、大敗戦後にあわてて作り直したシステムも、どちらもやっつけ仕事なので、1タームしかもたない。
1868年に始めたシステムは、軍事完全自己負担システムで、それがきつくて破綻した。
1945年システムは、アメリカ依存型である。
大敗戦直後には、時前の軍隊を持とうとさえしなかった。近代国家であることを放棄していた。実のところ、僕たちは近代国家であることが大嫌いなのだ。

アメリカ依存型か。その通りだな。

このままでは“いまの若者”が活躍する場は、ついにはこの地上には現れない。
(中略)
若い人が居場所を確保する可能性は二つ。
一つは、この社会を破壊すること。
もう一つは、社会から逃げること。
破壊は大変だ。豊かな世界は壊しにくい。
逃げるには、一つは伝統文化を身につけることだろう。とにかくいまのシステムをやわらかく否定するしかない。
近代以降、僕たちの社会は、文明的な便利さを追い求めてきた。文明的便利さから抜け出すには、文化が有効である。アタマで考えても文化は身につかない。カラダでしか身につかない。(中略)ただし伝統文化は、身につけるとなると、ものすごく時間がかかる。片手間でやるようなことではない。
(中略)
ただあまり悲観ばかりすることはない。
一つのタームが終わるという話でしかない。「大敗戦後社会」システムが終わるだけだ。
一つのタームのテールエンドにいるってことは、逆に考えれば、次の新しいタームのちょっとだけ先にいるってことだ。(先頭にいるんじゃない。その、ちょっと先にいるのだ。)
(中略)
ただ「次の社会システムとは何だろう」とアタマで考え出した時点で沈むからね。システムはアタマで考えられて、言葉になってやってくるものではない。知らぬうちに取り囲んでいるものだ。僕がヨーダなら、フォースの力を使え、と教えたい。でも僕はヨーダではない。あなたもジェダイではないだろう。フォースの力をうまく使えない。だからただ「考えるな。感じろ」と言うしかない。
カラダを使って、あとは勘と度胸で乗り切ってくれ。

この“逃げろ”とい部分をうまく捉えないと難しいと思う。


逃げろというと消極的なイメージだが
積極的な意味の逃げろ、という意味に捉えるべきだと思う。


っていっても結局いくらアタマで考えても
意味ないんだよな・・・


俺の悪い癖だ。


時代の流れを把握する上で良本だと思う。



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