【54想】 宮崎駿の“世界” / 切通理作

宮崎駿の“世界” (ちくま新書)
宮崎駿監督の作品はとても奥が深い。
そして学ぶことが本当に多い。

深いの木々はこの世界を綺麗にするために生まれてきた。大地の毒を身体に取り込んで、きれいな結晶にしてから死んで砂になっていく。蟲たちはその森を守っている。

これで思い出したのは以下のエントリー。

風の谷のナウシカ」と「千島学説」が私の中で不思議に重なってしまった。千島学説(故・千島喜久男医学博士の学説)では、がんは、血液の汚れを警告しているものであり、がん細胞は汚れた血液の浄化装置だという考え方をしている。現代西洋医学のがんに対する考え方とは全く違う。
ニキビを治す ニキビ痕を消す 為に調べたやってみた 口コミや情報を書いています - ニキビを治す ニキビ跡(あと)を消す やってみた 口コミ

「風邪は自然の健康法である。」の野口さんの発想と同じだ。
【3想】 風邪の効用 / 野口晴哉 - なんとなく考える


すべての病気、すべての出来事には意味があるという
東洋的発想。素晴らしい。

彼女のようにひたむきに生きていない自分に涙すらした。
「マンガ家を志望して、流行の不条理劇でも描こうとしていた自分の愚かさを思い知らされたのでだった。口をつく不信の言葉と裏腹に、本心は、あの三文メロドラマの安っぽくても、ひたむきで純粋な世界に憧れている自分に気づかされてしまった。世界を肯定したくてたまらない自分がいるのをもう否定できなくなっていた。」
けれど単に通俗的なだけの作品――観客がその映画を見ることによって、見る以前と何も変わった気がしない映画――もまたつまらない。入り口が身の丈でも、映画館を出る時には階段を一段か二段はのぼった気分になる。そんな映画を見たい。存在しないならば作りたい。

作画スタッフは絵コンテを切る際、セリフを勝手に変えてしまっても許されたという。このように東映動画時代の宮崎は、到底一スタッフとしての参加に留まらず、作品内容を内側から大きく変化させた。
宮崎はアニメーター志望の若者にこう呼びかけている。
「だれもが君に期待していないことを君が無料で行い、その提案が説得力を持っていたなら、よほどガリガリの既得権主義者がスタッフの長でない限り、君の世界は受け入れられる。なにしろタダなのだし、その提案を受け入れてもタイトルに君の名前を出す必要だってないのだから、メインスタッフにとっては丸もうけなのだ。そして君はそのときはじめて作品をつくる、あのおののきを感じることができる」

これは上司の意見を無視するという
天外さんのマネジメントに通じる。

ただ自然という現象を描く時に、たとえば空気というものもそれから植物も光も、全部、静止状態にあるんじゃなくて、刻々と変わりながら動態で存在しているものなんですよね。それを見ている自分も、歩いている自分も、その感受性も刻々と変化するでしょう。いつもなら『いいなあ』と思える景色が、今日は条件は全部そろっているのに全然目に入ってこないっていうかね。どうでもいい風景にしか見えない。それから何でもないくだらない状況なのに、やたらと景色が見えるとかね(笑)それは、みなさん経験していることだと思いますよ
(中略)
宮崎駿ストップモーションやスローモーションのような、作品の中で時間の流れを極端にいじる手法をほどんと使わない。そこで流れている時間は見ている我々の息づいている時間とほぼ同じである。
どこかを強調するということは、他のどこかを弛緩させるということになる。しかし、我々の生きるこの現実がそうであるように、あらゆる場面は次の場面に到達するための仮定ではなく、それ自体が今生きている<時間>なのではないのか。
主人公は何事も、行為の一つながりの中で直感を働かせて次の行動を決める。主人公の決断そのものも観客が行為の中で一緒に体験できる――それが宮崎アニメの魅力かもしれない。宮崎は、作品の中でひとつの事件を描いた後<数日後>という描写をするよりも、同じ日の朝・昼・晩を描き、作品全体でも数日間しかたっていない物語にするのが自分の生理だと語っている
今描かれている世界が目の前にあるという一瞬一瞬を肯定していく。宮崎自身の言葉を借りれば<連続する兆しの動態>。それがあれば人は同じ映画を何度見ても楽しむことができる。
(中略)
過剰な思い入れをすれば、空間と時間はいくらでも伸ばすことができるというふうに思って作っている。だから時間というものは、一瞬の内に過ぎていくその瞬間を切り取ってくるのだという緊迫感が全然ないんですよ。
やっぱり映画というのは、時間なんですよ。ここでこの顔を二秒見せたいと思っても、この表情は十八コマしかありえないという時に、どうやってその十八コマを、なんとかしてそこに凝縮しながらその気持ちを表現できないかということ、そういう緊迫感があるのでなければ駄目だと思う。

過去や未来でなく“今”なのである。

宮崎アニメではラストシーンまで完成する前に作画作業が始められることが多い。つまり、場面の積み重ねとしての絵を描いていくことでドラマを前に進めていくのだ。
(中略)
宮崎は設定されてもいない登場人物すら絵コンテにとつぜん登場させてしまう。
(中略)
自分が動かした人間に対して「こういうやつなんだろうなあ」という人間観察をしているようにも思える。はじめからそう作ったものを流ちょうに語っているのではなく、映画とは独立した発言になっていて、それがまた読み物として面白い。

今の積み重ね。

ナウシカ』以来の<自然と人間>という問題にもう一度映画で本格的にぶつかることにしたのだ。しかも、人間と自然とは根源的に<共生>など出来ないという現実を『ナウシカ』以上にごまかさずに描く。
(中略)
網野善彦は『もののけ姫』のパンフレットに寄せた文章でこう書いている。
「山や森は神様が住む聖地なのだという捉え方が崩れはじめたのが室町時代からで、これは歴史的な事実といってもよいと思います。」
(中略)
「田園風景が美しいというのは、人間の傲慢であって、畑というのは基本的に他の植物が生えるチャンスを奪っているわけですから、不毛の地という印象が強いですしね。自然界からみた生産量からいうと、畑になっている土地よりも、ただの荒れ野のほうが生産量が高いんですよね。他の生き物にとってもそれは同じです。」
そこには中間的な<第三の道>はなく、無垢な自然から見れば人間はハナから汚れを背負っている存在として描かれる。
「人間が普通につつましく暮らしている分には自然と共存できて、ちょっと欲張るからだめになるということではなくて、つつましく暮らしている事自体が自然を破壊しているんだって認識にたつとどうしていいかわからなくなる。どうしていいかわからないところに一回行って、そこから考えないと環境問題とか自然の問題はだめなんじゃないかって思うんです。」
(中略)
宮崎駿は『もののけ姫』を終えてから、臨海副都心の都市計画に取り組む荒川秀作と、オーストリアやドイツで建設活動を繰り広げるフンデルト・ヴァッサーへの感心と共鳴を示した。
(中略)
「人間はもう自然をかき回して、自然の神様を殺したのだから、貧弱に残ったり、人間の手が加わってできたものを、『これも自然だ』というごまかしをやめて、もう手を入れ出した以上、その自然にとことん手を加えていかなければならないと考えている点も、二人に共通するところですね。」(中略)
わざと人間が歩きにくく、暮らしにくくすることで、スリルと冒険が生まれるのが彼らアーティストの考案する都市だ。

自然に対する考察。
これはいずれじっくりと考えていきたいテーマだ。