【52〜53想】 海辺のカフカ / 村上春樹

海辺のカフカ (上) (新潮文庫) 海辺のカフカ (下) (新潮文庫)
村上春樹氏の新刊がかなり売れているようだ。村上氏のことに興味を持ったのは、以前エルサレムで賞をとったときにスピーチを見たことだ。確かその後に初めてアフターダークを読んで、その独特の文体にとても驚いたのと同時に、その不思議な世界観に惹かれて、この海辺のカフカを買った。


しかしその厚みのある本を前にどうも手が伸びずに本棚にしまわれたままだった。ただ、最近本当にやることがなくなってきたのをきっかけに手にとって読み出した。


相変わらずの文体と、複数の物語が並行して進む内容に、すぐに引き込まれて読みいった。主人公は15才の少年。15才の時は何をやっていたのだろう。なんら普通の中学生であったように思う。そう言えば生まれて初めて告白してフラれたのが15才の時だった。あの時走って家に帰ったのを懐かしく思い出す。


で、少し話がそれたが、しばらく読み進めると量が多いということもあるためか、登場人物のその独特の語り口に少し嫌気がさした時が一瞬あった。話している内容が難しいということとうまく自分の体験に落とし込めなかったのがイライラした原因か。しかしそれはただの一時で、また少し読み進めると、並行していた一見何の関係もない物語が徐々に一本の線に繋がり始め、それがたまらなく面白くて食い入るように読んだ。上巻の最後当たりからだ。


猫と話すとか、原因不明の集団記憶喪失が起こるとか、空から魚とかヒルとかが降ってくるとか、そういう話が個人的に好きだということもあるが、物語が徐々に一本の線に繋がっていく感じが、映画のマグノリアを思い出させた。確か生まれて初めて恋人と一緒に映画を見に行った、思い出深い映画で大好きな映画だ。


そしてナカタさんが佐伯さんと出会い、主人公があの世との境でやるべきことをやっているところらへんがとにかくピークですごくて、何がすごいって自分の中のなにかとびんびん共鳴して、本当にやばかった。時間は確か夜中の2時から3時だ。過去のいろんなことを思い出し、まさに今読むべき本だったんだと思って、主人公ならぬ、本を読みながら変な感覚にとらわれた。


そのピークを通り越すとふと眠気が襲ってきて、最後まで一気に読んでしまいたかったがもう3時を少し回っていたし、小説の内容もなんか自分に対して役目を終えた感じで、続きは次の日に起きて読むことにした。次の日起きて、続きの特に変化もなかった内容をたんたんと読み終えた。


いやぁ面白かった。


ネットでいろいろ書評を見ていると、コアな読者たちからはそれなりな批判が出ていて、それを読んでみると確かにと思える内容であった。例えば、佐伯さんとか大嶋さんがあまり深く描かれていないとか、確かにそう言われればそうだなと思った。


しかしそれはこの作品が文学としてどうなのかという批評の部分で、とりあえず自分は今まさにこの小説を今読むべきだったのだという印象が強く残った。そう言ってしまえば、すべての読んだ本がそうなってしまうのだが、とりあえず、なんか大切なものを、いやもうそれはほとんどすでに知っていたことなのだが、改めて教えてくれたという感じだ。


あぁ、わかってるよ。主人公がそれを受けいれたように、自分もそれを受けいれなくてはいけないんだ。


以下響いたところをメモっておくことにしよう。

ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T.S.エリオットの言う<うつろな人間たち>だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。
(中略)
ゲイだろうが、レズビアンだろうが、ストレートだろうが、フェミニストだろうが、ファシストの豚だろうが、コミュニストだろうが、ハレ・クリシュナだろうが、そんなことはべつにどうだっていい。どんな旗を掲げていようが、僕はまったくかまいはしない。僕が我慢できないのはそういううつろな連中なんだ。
(中略)
結局のところ、佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのもそういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空虚な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに恐いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。何が正しいかただしくないか――もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取り返しはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこに救いはない。

佐伯さんの恋人を殺したのは、全共闘だろう。全共闘についてはすごい興味があって動画を一時よく見たがまだよくわからない。時間があるときに少しずつ考えようと思っていたところだった。まぁとりあえず村上春樹に言わせれば彼らは<うつろな人間たち>らしい。

世の中のほとんどの人は自由なんて求めてはいないんだ。求めていると思いこんでいるだけだ。すべては幻想だ。もしほんとうに自由を与えられたりしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ。
(中略)
ジャン・ジャック・ルソーは人類が柵をつくるようになったときに文明が生まれたと定義している。まさに慧眼というべきだね。そのとおり、すべての文明は柵で仕切られた不自由さの産物なんだ。もっともオーストラリア大陸アボリジニだけはべつだ。彼らは柵を持たない文明を17世紀まで維持していた。彼らは根っからの自由人だった。好きなときに好きなところに行って好きなすることをできた。彼らの人生は文字どおり歩きまわることだった。歩きまわることは彼らが生きることの深いメタファーだった。イギリス人がやってきて家畜を入れるための柵をつくったとき、彼らはそれがなにを意味するのかをさっぱり理解できなかった。そしてその原理を理解できないまま、反社会的で危険な存在として荒野に追い払われた。だから君もできるだけ気をつけたほうがいい、田村カフカくん。結局のところこの世界では、高くて丈夫な柵をつくる人間が有効に生き残るんだ。それを否定すれば君は荒野に追われることになる。

でもそういう生きかたにもやはり限界があるんじゃないかしら。強さを壁にしてそこに自分をかこいこむことはできない。強さというのは、より強いものによって破られるものなのね。原理的に。強さそのものがモラルになってしまうから。
(中略)
僕が求めているのは、僕が求めている強さというのは、勝ったり負けたりする強さじゃないんです。外からの力をはねつけるための壁がほしいわけでもない。僕がほしいのは外からやってくる力を受けて、それに耐えるための強さです。不公平さや不運や悲しみや誤解や無理解――そういうものごとに静かに耐えていくための強さです。
それはたぶん、手に入れるのがいちばんむずかしい種類の強さでしょうね。

じいちゃんがお釈迦様の弟子の話を聞かせてくれたことがあった。弟子の一人に茗荷(みょうが)という名前のものがいた。頭が悪くてのろまで、簡単な経典の文句ひとつに満足に覚えられなかった。それでほかの弟子に馬鹿にされていた。ある日お釈迦様が彼に言った。「よう、茗荷、お前頭わるいから、経典もう覚えなくていい。そのかわりずっと玄関の土間に座ってみんなの靴を磨いてな」とか。茗荷は素直だったので、「ふざけんじゃねえや、お釈迦。てめえのケツでもなめてろ」とは言わなかった。それから10年も20年も言われたとおりみんなの靴をせっせと磨き続けた。そしてある日ぽんと悟りを開き、お釈迦様の弟子たちの中でももっとも優れた人物の一人になった。

「迷宮という概念を最初につくりだしたのは、今わかっているかぎりでは、古代メソポタミアの人々だ。彼らは動物の腸を――あるいはおそらく時には人間の腸を――ひきずりだして、そのかたちで運命を占った。そしてその複雑なかたちを賞賛した。だから迷宮のかたちの基本は腸なんだ。つまり迷宮というものの原理は君自身の内側にある。そしてそれは君の外側にある迷宮性と呼応している」
「メタファー」とぼくは言う。
「そうだ。相互メタファー。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身の内にセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ」

いいかい、戦いを終わらせるための戦いというようなものはどこにもないんだよ。(中略)戦いは、戦いの自体の中で成長していく。それは暴力によって流された血をすすり、暴力によって傷ついた肉をかじって成長していくんだ。戦いというのは一種の完全生物なんだ。君はそのことを知らなくちゃならない。
(中略)
僕はどうすればいいんだろう?(中略)そうだな、君がやらなくちゃならないのは、たぶん君の中にある恐怖と怒りを乗り越えていくことだ。(中略)そこに明るい光を入れ、君の心の冷えた部分を溶かしていくことだ。それがほんとうにタフになるということなんだ。
(中略)
深い森の中で、ひとりぼっちで、自分という人間がひどくからっぽに感じられる。自分がいつか大嶋さんが言っていた<うつろな人間>になってしまったような気がする。僕の中には大きな空白がある。そしてその空白は今でも少しずつ膨らんでいって、それが僕の中に残されている中身をどんどん食い破っていく。その音を僕は耳にすることが出来る。自分という存在がますますわからなくなっていく。僕はほんとうに途方に暮れている。そこには方向もなく、空も地面もない。(中略)僕は孤独で、うす暗い迷宮の中にいる。風の音に耳をすませるんだ、と大島さんは言った。僕は耳をすませる。しかしそこには風なんか吹いていない。カラスと呼ばれる少年だってどこかに消えてしまった。
頭をつかって考えるんだ。そうすればいいか、考えるんだよ。
でももうなにも考えることができない。なにを考えたところで、僕が行き着くところは結局、迷宮のつきあたりでしかないのだ。でも僕の中身とはいったいなんだろう? それは空白と対立するものなんだろうか?
ここでこのまま自分という存在を抹殺してしまうことができたらな、と僕は真剣に考える。この樹木の厚い壁の中で、道ではない道の上で、息をすることをやめ、意識を静かに闇に埋め、暴力をふくんだ暗い血を最後の一滴まで流し去り、すべての遺伝子を下草のあいだで腐らせてしまうんだ。そうすることによってはじめて僕の戦いは終わるんじゃないか。僕はそう考える。そうしないことには、僕はいつまでも永遠に父なるものを殺し、母なるものを汚し、姉なるものを汚し、世界そのものを損ないつづけることになるんじゃないか。目を閉じて、自分の中心を見つめる。そこを覆う闇はひどく不揃いで、ざらざらとしている。暗い雲が切れると、ハナミズキの派が月の光を受けて千の刃物のように光る。
そのとき皮膚の奥でなにかが組み替えられるような感覚がある。頭の中でかちんという音が聞こえる。
(中略)
もし必要があればそれで手首の血管を切り裂き、僕の中にあるすべての血を地面に流し去ることができる。そうすることによって、僕は装置を破壊するのだ。
僕は森の中核へと足を踏み入れていく。僕はうつろな人間なのだ。僕は実体を食い破っていく空白なんだ。だからこそもう、そこには恐れなくちゃならないものはないんだ。なにひとつ。
そして僕は森の中核に足を踏み入れていく。

この部分はかなり来た。

君がやらなくちゃならないのはそんな彼女の心を理解し、受け入れることなんだ。彼女がそのときに感じていた圧倒的な恐怖と怒りを理解し、自分のこととして受け入れるんだ。それを継承し反復するんじゃなくてね。言い換えれば、君は彼女をゆるさなくちゃいけない。それはもちろん簡単なことじゃない。でもそうしなくちゃいけない。それが君にとっての唯一の救いになる。そしてそれ以外に救いはないんだ。
(中略)
だから君はたとえ自分の身を捨てても、そいつをとことん追求しなくちゃならない。
「自分の身を捨てる?」その言葉にはどことなく不思議な響きがある。僕はその響きをうまく呑みこむことができない。

人間にとってはほんとうに大事なのは、ほんとうに重みを持つのは、きっと死に方のほうなんだろうな、と青年は考えた。死に方に比べたら、生き方なんてたいしたことじゃないのかもしれない。とはいえやはり、人の死に方を決めるのは人の生き方であるはずだ。


村上春樹の小説は全体として捉えられるもの以外に、個としてもいろいろな意味を得られるのがあるのが面白く好きなところだ。


それにしても引用長い・・・
スキャンできてOCRで文字認識できれば楽だが・・・