【2想】 アンダーグランド / 村上春樹

アンダーグラウンド (講談社文庫)


延々と、そして淡々と被害者たちのインタビューが続く。彼ら彼女らは自分と何ら変わりのないいわゆる普通の人々だ。
最寄り駅に通勤している人が被害を受けているのは驚いた。こんなに身近に被害を受けている人がいるとは。。。

その気の毒な若いサラリーマンが受けた二重の激しい暴力を、はたの人が「ほら、こっちは異常な世界から来たものですよ」「ほら、こっちは正常な世界から来たものですよ」と理論づけて分別して見せたところで、当事者にとっては、それはなんの説得力も持たないんじゃないか、と。その二種類の暴力をあっちこっちとに分別して考えることなんて、彼にとってはたぶん不可能だろう。考えれば考えるほど、それらは目に見えるかたちこそ違え、同じ地下の根っこから生えてきている同質のものであるように思えてくる。

オウム事件により被害を受けた後、後遺症のために会社の人にちくちくと嫌がらせを受け、まさに二重の被害を受けた若きサラリーマンの記事を読んだのが、村上春樹氏がこの本をまとめるきかっけになったという。

そこにいる生身の人間を「顔のない被害者の一人(ワン・オブ・ゼム)」で終わらせたくなかったからだ。職業的作家だからということもあるが、私は「総合的な概念的な」情報というものにはそれほど興味がもてない。一人ひとりの人間の具体的な――交換不可能(困難)な――あり方にしか興味が持てないのだ。

この意見には激しく同意できる。自分もあまりテレビのニュースで流される「被害者」には、何か違和感を感じる。どこかテレビによって作られており、本来の人間像と異なるような気がしてならない。たかが数十秒で人間性など伝わるのだろうか。人を殺した=悪い人=裁かれなくてはいけない、という公式が一瞬で視聴者に植え付けられ、その背景を考えさせる暇を与えない。もちろん人を殺した人には何らかの裁きするべきだとは思うが、もう少し深く考える見方を与えるような報道はできないのだろうか。

余計な装飾物さえ取り払ってしまえば、マスメディアの依って立つ原理の構造はかなりシンプルなものだったと言える。彼らにとって地下鉄サリン事件とは要するに、正義と悪、正気と狂気、健常と奇形の、明白な対立だった。
人びとはこの異様な事件にショックを受け、口々に言う、「なんという馬鹿なことをこいつらはしでかしたんだ。こんな狂気が大手を振って歩いているなんて、日本はいったいどうなってしまったんだ。警察は何をやっている。麻原彰晃は何があっても死刑だ。」
そのようにして人々は多かれ少なかれ、「正義」「正気」「健常」という大きな乗合馬車に乗り込んだ。それは決してむずかしいことではなかった。そこでは相対性と絶対性が限りなく近接していたからだ。つまり、麻原彰晃オウム真理教信者に比べてみれば、また彼らがなした行為に比べれば、世間の圧倒的多数の日とは間違いなく「正義」であり「正気」であり「健常」だった、ということだ。これくらいわかりやすいコンセンサス(意見一致)はない。
(中略)
オウム真理教」と「地下鉄サリン事件」が私たちの社会に与えた大きな衝動は、いまだに有効に分析されてはいないし、その意味と教訓はいまだにかたちを与えられていないのではないだろうか。(中略)「要するに、狂気の集団が引き起こした、例外的で無意味な犯罪じゃないか」というかたちで事件は片付けられつつあるのではないかと。言い方は極端かもしれないけれど、この事件は結局は四コマ漫画的な「笑い話」として、ビザ―ルな犯罪ゴシップとして、もしくは世代別にプロセスされた「都市伝説」というかたちをとってしか、意味的に生き残れない状況へと向かいつつあるようにさえ思えるのだ。
(中略)
「オウムは悪だ」というのはた易しいだろう。また「悪と正気」は別だというのも論理自体としてた易いだろう。しかしどれだけそれらの論が正面からぶつかりあっても、それによって<乗合乗馬的コンセンサス>の呪縛を解くのはおそらくむずかしいのではないか
というのは、それらは既にあらゆる場面で、あらゆる言い方で、利用し尽くされた言葉だからだ。言い換えれば既に制度的になってしまった、手垢にまみれた言葉だからだ。このような制度の枠内にある言葉を使って、制度の枠内にある状況や、固定された情緒を揺さぶり崩していくことは不可能までとはいわずとも、相当な困難を伴うさようであるように私は思えるのだ。
とすれば、私たちが今必要だとしているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ――ということになるかもしれない。

すごい視点で、表現だ。
新しい方向からやってきた言葉。


それは一体何なのだろう。

私たちが何かを頭から生理的に毛嫌いし、激しい嫌悪感を抱くとき、それは実は自らのイメージの負の投影であるという場合が少なくない。

痛いほどよくわかる。

私が言いたいのは、「私たちがわざわざ意識して排除しなくてはならないものが、ひょっとしてそこに含まれていたのではないか」ということだ。
(中略)
それはある意味では、我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイズから排除し続けている、自分自身の内なる影の部分(アンダーグランド)ではないか。私たちがこの地下鉄サリン事件に関して心のどこかで味わい続けている「後味の悪さ」は、実はそこから音もなくわき出ているものではないだろうか?

システム(高度管理社会)は、適合しない人間は苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないことは『病気』であり、適合させることは『治療』となる。こうして個人は自自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的パワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスを求めることは、『病気』とみなされるのだ。

アメリカの連続小包爆弾犯人、ユナボナーの言葉。
深く考えさせられる言葉だ。

あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまっていないだろうか? もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか? あなたの「自律的パワープロセス」は正しい内的合意点に達しているだろうか? あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか? あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間のゆめではないのか?


いろいろ考えさせられた。
そしてこれからも深く考えていきたい。