【131想】 読書と社会科学 / 内田義彦

読書と社会科学 (岩波新書)


“本”というものはとても興味があるのだが、
その“読み方”にはいつも悩まされる。


フォトリーディングで早く読むことは出来るものの
どうも腑に落ちない点も多々ある。


結局いろんな読み方があるということなのだろうが、
この本の中でもあった“古典”を読むことは
これからやっていきたいことである。

本“で”モノが読めるように、そのように本を読む。それが「本を読む」ということの本当の意味です。

納得

新奇な情報は得られなくても、古くから知っていたはずのことがにわかに新鮮な風景として身を囲み、せまってくる、というような「読み」があるわけです。哲学者は万人の(すでに)知ることを語る、といいますよね。

この感覚はなんかわかるような気がする。

私が、古典としての読みの意義を一方的に強調したのは、現在、本を情報として読む風習があまりにも強く一般的になってきており、古典として読む風習と技術が失われつつあると思うからです。それではせっかくの情報が情報になりません。
情報時代といわれ、情報はいっぱいあっても、自分の視点が定まってこないかぎり、氾濫する情報は、自分を押し流すだけで、自分の情報になってこないでしょう。情報が多いことがそのまま悪ではない。情報を的確に選び取り、読むべきものについて読むべきほどのことを読み取る術を、手に入れなければならない。情報に流される事態から情報を使いこなす状態に変えなければならないでしょう。そして人が現に情報の氾濫に戸惑っているという否定的な事態の中に、すべての人が正確な情報を基に、自由な人間として判断し行動しうる社会への推転の必然性が表れている、と私は思うんです。

これが1984年に書かれているから驚きである。


これは自分が常日頃から思っていること。


とにかく情報が多すぎる。


何を信じていいのか判らない。


そうした中でいかに良い情報、自分に必要な情報を
得るかという選択眼を身につける必要がある、というのは
誰もが思っていることだと思う。


著者はそれには“古典”を読むということが
重要だと説いている。


また改めて読み直したい。